桜塚やっくん

早いもので、いしだちゃん祭り31年の歴史でも重要な人物であった桜塚やっくんが突然の事故で亡くなってから7年が経った。その直後、mixiに綴ったものを、ここに再録したい。

〈10/2 15:33 桜塚やっくん〉――僕の携帯電話に残っている「最期の発信履歴」だ。それから3日と2時間43分後、10月5日の午後6時16分に37歳の短い命を散らせている。

同日の午後11時頃から立て続けに電話やメールが鳴り響く。事態はすぐに把握したが、あまりにも現実感とかけ離れていたため、むしろ翌日の日刊スポーツ一面で「心臓破裂」の文字を見た時のほうが胸をつらぬいた。僕より15歳も若いのに、まだやりたいこともたくさんあっただろうに。

祭りを24年もやっていると、いろんな場面に遭遇する。レギュラーの早すぎる死という点では、06年に35歳の若さで「クモ膜下下出血」で急逝した村田渚(フォークダンスDE成子坂→ピン→鼻エンジン)に次いでのこと。いずれも、前ぶれすらなく別れは突然にやって来た。

やっくんとの出会いは2000年3月11日に開催した「いしだちゃん祭り」の第44回のこと。竹内幸輔と組んだ「あばれヌンチャク」としての初陣だが、まだ人前でネタをやるのも3回目という超のつくフレッシュな状態。僕もネタを観たわけではなく、単にコンビ名に何か光るものを感じてのこと。それから長い長いつきあいになろうとは、思いもしなかった。

HPの記録を調べると、2001年5月12日に開催したピン芸人だけのイベント「12大シングルマッチ」において、初めて「女装=あゆメイク」で企画に参加してもらっている。そう、あの「桜塚やっくん」の原型となったのが、この瞬間だったのだ。

ライブだけでなく、一緒に飲んだりすることも多かった。彼がコンビを解散する時、僕が04年に一時的にライブ活動を休止する時、05年秋に再起動を決めた夜も、いつもそこには彼がいた。そして06年1月に再び「祭り」が始まると、大ブレイクした彼のおかげで入りきれないほど多くのお客さんを呼んでもらった。ライブは、彼が営業で1晩に稼ぐ金額からいえば微々たるものだが、それでも、今年の1月まで「新ネタ」さえあれば優先して出てくれた。少年ジャンプじゃないが「やっくんの純粋な新ネタが見られるのは祭りだけ!」と言えた。

最期の会話は「来週は祭りだけど、ネタはどう?」と誘いかけた。残念ながら「いやあ、なかなか‥‥」とやんわり断られてしまったけど、いつも彼は「次は誰ですか?」と聞いてくる。ハマカーン、かもめんたるなど近年のコンテストを制した者たちの名をあげ「祭りからですよ!」と言ってくれる。いやいや、かもめんたるは1回しか出てないよと僕もまぜ返す。そして「近くまた飲もうか」と言って電話を切った。

その衝撃の死から1週間後に年内最後となる祭りを迎えた。始まる直前に楽屋で重鎮のユリオカ超特Q氏と打ち合わせる。

「お笑いライブと追悼の儀式は相容れないところはあるけど、やはり、祭りで何もやらないわけにはいかないでしょう」

そしてエンディングで全出演者、観客の皆さんとともに「横浜のほうに向かって」と黙とうを捧げた。あれ、横浜ってどっちだっけ?とバタバタな感じでリラックスできたのが、いかにも祭りらしかった。

打ち上げで皆と話したのは、間違いなくあの会場のどこかに、彼がにこやかな顔をして見ていたということ。僕にとってもニューカマーの勢いがめざましく、ここ数年来でもっとも「次回が楽しみ!」という満足感のうちに終えられた。それは彼が常に僕にハッパをかけていたままに――。

四十九日の日に。安らかに、そして若者たちをあたたかく見守り続けてほしい。

2013年11月22日、石田伸也

さて、ここからは2020年の追記であるが、昨年11月には「フォークダンスDE成子坂」の桶田敬太郎君も48歳の若さで亡くなっているのだな。それが逆説的に31年の歴史の長さを物語るのだろうけど、ひとつ言えることは、亡くなった彼らもきっと若手お笑い界を見守ってくれているだろうといこと。